【高麗時代】後百済の甄萱(견훤:キョン・ホン)と新羅末期の半島情勢:昨日の敵は今日の友!

今日は後三国時代(統一新羅の末期)の中の一つ「後百済」を建国した甄萱(キョンホン)について解説したいと思います。

副題として「昨日の敵は今日の友」と題して進めます。ここでは友ではなく、「尚父」として師や父のように敬いますという言葉を用いたとのことです。

ではどんな背景があったのでしょうか。

高麗といえば、活字印刷、青磁、仏教文化など、文化においても、注目すべきものがあります。

また、英語でのkoreaはこの時代の「高麗(韓国語でコリョ)」の発音から来ているといわれるぐらい、朝鮮半島のアイデンティティーがつまっているのです。

甄萱(견훤:キョン・ホン)の出生

キョンホンは867年から936年の間を生きた豪族であり、指導者でした。彼は地図で示している、慶尚道の尚州(サンジュ)の加恩県というところで生まれました。地図の赤い表示がそこです。

彼の父は富農とも大きな勢力をもつ豪族ともいわれるアジャゲという人物。彼は現在の黄澗甄氏の始祖と言われています。

キョンホンの出生談といして有名なのが、ミミズの化身とまじわって生まれた子という話しです。ある時、若い娘の寝床に毎晩やってくる青年がいた。彼女は親に相談すると、その青年の服に針と糸をつけなさいと。すると、その糸を辿ると、ミミズであったという。結局その女性は子を宿し、生まれた子供がキョンホンであったというものです。

日本の三輪山伝説にも似たような内容があります。活玉依姫が蛇と交わって懐妊するというもの。

さてミミズというと何か弱弱しい感じがしますが、実際ミミズは生命力の象徴で、地龍とか土龍とも呼ばれるものだということです。

ちなみに王建の場合は龍が母のお腹にはいるという夢を見たということが伝わっています。韓国はこの胎夢(テモン)という子供の出生に関しての夢を信じる傾向があります。

また、キョンホンは後にトラの乳で育てられたとか、成人になると弓をよく射るということと、馬をよく操り、矢よりも馬を早く走らせるということで、実際矢をいって、馬を走らせた場所が馬の岩ということで残っています。

新羅の末期:内乱期

この当時は新羅の政治が腐敗していて、王位継承で内部での混乱が起こります。それに伴って、農民への重税が加わり、各地で豪族を中心に反乱がおこります。

代表的なのが元宗・哀奴の反乱です。この反乱は実際にはキョンホンの父、アジャゲではないかという話しもあります。

とにかくこの反乱を機に各地には強い指導者が現れ、統率、政治体制をとっていきます。

その一人キョンホンは忠清道・全羅道中心に勢力を抱えていきます。

彼の出世は新羅の海賊を鎮圧することからか裨将(ピジャン)という副将になり、順天(スンチョン)地域を占領します。

そこから、陸路に892年に今の光州である、武珍州へ至ります。

後百済の建国

900年に完山州(ワンサンジュ)という今の全州を占拠しここで、後百済を建国します。

当時は新羅への不満もあり、‘百済義慈王の恨みをはらすという’スローガンを掲げ、地域の支持を集めます。

それが34歳でした。キョンホンは若くしてリーダーとなっていることがわかります。

領土の拡大と後高句麗との激戦

当時は高句麗の地域に高麗を建てた弓裔(クンエ)がいました。クンエに関してはfanam channelにアップした弓裔(クンエ)の動画をご覧ください。

こちらは後高句麗と名乗り、後百済とライバルとなります。

まず、キョンホンは内陸の新羅への通路を開くために、大耶城(テヤソン)をとることにかかります。ここを占拠すれば、慶州はもちろん、日本への交易の主導権が握ることができるのです。何度の失敗と重ねながらも、920年にそれが成功します。

しかし、高麗は全羅道の南の羅州(ナジュ)に攻撃をしかけます。つまり、後百済の背後をつくのです。そこがまず、珍島(チンド)であり

この地域は当時非常に大きな都市であり、かなりの勢力があったといわれます。また、海上交易によって栄えた地域でもありました。

結局高麗の軍を率いた王建(ワンゴン)が錦城(クムソン)という羅州(ナジュ)を攻略します。ここは呉多憐(オ・ダリョン)という有力豪族がいました。後に高麗政権下での有力豪族となります。

これらを味方につけたのです。さらにここは大きな穀倉地帯。海上交易など様々な利点がありました。

ヨンサンガン流域では徳津浦(トクシンポ)の海戦で後百済は破れます。

内陸でも曹物城(チョムルソン)というアンドンとサンジュの間にある地域と推定される城を中心に後百済と後高句麗は激戦を繰り返します。

慶州の陥落

後百済は慶州を陥落させます。当時貴族たちは鮑石亭(ポソクチョン)という宴会場で宴を楽しんでいたのです。

そこに急襲され、景哀王は殺されます。そして敬順王を立てて、慶州を陥落させます。

鮑石亭(ポソクチョン)とは、詩を書いたお酒の器を浮かばせて楽しむ宴会の場所でした。いかに新羅の貴族はのんきだったことがわかりますね。

後百済滅ぶ クライマックスは

さて、後百済は後高句麗には徐々に不利になります。

そんな中内部での争い、さらにキョンホンの子供である、神剣(シンゴン)が王位につくという内乱が起こり、キョンホンは幽閉されます。

そんな百済の情勢を汲み取り、王建(ワンゴン)は、キョンホンを迎えることとします。どうして殺さずに生かそうとしたのか。王建はこのときとばかりに、キョンホンを利用しようとしたということも言われています。いぜれにせよ、ドラマ「太祖王建」では

王建はキョンホン一行を迎えながら、昨日まで恩讐のように戦っていた、頭領を手厚く迎えるのです。

ドラマ太祖王建でその場面が強調されていますね。

キョンホンは王建に韓国式のジョル(頭を下げて挨拶する行為)を願います。

王建はそれを拒みます。実際年齢は王建のほうが若いのです。

そして、王建はキョンホンに向かって、実の父ではないが、父や恩師のように接したいという意味での「尚父(サンブ)」と呼びます。

昨日の敵は今日の友、いや今日の師匠であり、父。と言えないでしょうか。

非常に感動する場面です。史実はどうあれですが。

王建は残った百済の勢力を討伐して、後百済の戦争は終わります。

また、新羅の王族も手厚く保護し、三国を統一するとなります。

まとめ

歴史は勝者を中心に書かれます。後高句麗そして高麗は歴史の勝者となるのですが、百済は復興することができず、その思いは今も面々と受け継がれているのかもしれません。

地域感情がまだ残り、特に百済の都のあった全羅道を中心には、他の地域から蔑まれることとなるともいわれます。

王建は三国をまとめたといいますが、地域の感情まではまとめることはできなかったのでしょうか。

コメント

タイトルとURLをコピーしました