【伊豆の旅】伊豆の踊子紀行2:下田港に佇(たたず)む。伊豆そして下田が「私」に語るもの。

旅の記録

「ペリーロード」の散策後、引き続き「下田公園(城山公園)」へと登ってみた。ここから下田の港が一望できる。

下田公園を散策したら、伊豆急下田駅の方角へと歩き、駅の手前から港のほうへ右折すると「みなと橋」がある。この橋を渡ると下田港に出られる。ここがあの『伊豆の踊子』の小説の中で、主人公と踊子が分かれる場面だ。

下田公園から港を見る

ペリーの記念碑から再度ペリーロードに向かうと、トイレがある。そこから「下田公園」に入ることができる。公園というよりは「丘」のようなところだ。散策にはいいのかもしれないが、すべての道を歩くとかなりの時間を要するようだった。ただ日本一のアジサイ園としても知られている。100種以上のアジサイを見ることができるので、6月の開花時期に合わせて出向くのもいいでだろう。

私はこの丘から港を一望できる場所を探した。そこで一息つき、すかさずスケッチをしてみた。下田港が見え、そして遊覧船が走っているのがみえた。人気のないところでゆっくりスケッチ。

写真でもわかるかもしれないが、ここは後北条氏(小田原北条氏)の山城だった。またの名を鵜島城ともいう。この地域が鵜島ともいわれていたからだそうだ。豊臣秀吉の1万を超える軍勢と600余名で籠城したという。道なりがまっすぐではなく、曲がりくねっていていまだにその戦いの名残が見え隠れする。まさに50日間籠城しただけあって、天然の要害ともいわれるほど納得できる地形だった。

山城を下ると、そこには大きな石碑がある。下岡蓮杖という日本の写真術の開祖だ。横浜で写真家のウィルソンからその技術を習得し、写真館を開業したという。

下田港で佇む

今回の最終目的地は下田港だ。『伊豆の踊子』の主人公「私」(以下青年)が踊子と別れた場所として設定されている港。主人公の青年は東京行きの船に乗り込む。その船が遠ざかるなかで、踊子は白いものをふっている。青年はただ涙をし、「そのあとは何も残らないような甘い快さ」を感じていたという。

青年の頭は澄んだ水のようになり、流れるままの涙がぼろぼろと落ちていく。このシーンで青年が涙するのはなぜか。踊子との別れか、それとも旅芸人と出会い過ごした日々を懐かしんでいたのか、それとも青年の過去との決別なのか。青年の時期によくある自我の悩みや感傷が踊子の無垢な心によって解きほぐされていったという見方もある。

川端康成の心理が反映されているならば、「孤児」の心から生じていると判断した、どうにもならない孤独感や人に心を開くことのできないエゴを主人公の青年に反映させたともいわれる。

実は私はこの港に立ってみて、なぜかあの青年ではないが、涙が流れてくるような思いをした。(実際には泣いてはいないが)。それは不思議な体験ではあった。そこには踊子などいるはずはない。その下田の景色と海、山をみていてなぜか感傷的になってしまったのだろうか。

その時は風が吹いていた。心地よ港の風だ。日本の景色や自然に癒されていたのかもしれない。または小説の主人公のように、そして川端のように過去の自分と決別していく思いになっていたのかもしれない。

小説では

という。

そんな折踊子一行と伊豆でであう。そんな踊子から次のような言葉を耳にする。

青年は自分自身を肯定され認められるという体験をするが、これは自分自身を愛し、認め、自分に素直になっていけるきっかけであったと私はみている。それは次のシーンでも理解できる。

美しい空虚な気持ち。これは言い換えれば素直な気持ちともいえないだろうか。

そうだった。私もこの伊豆の旅を思い立ったのはどこか日々の憂鬱な気持ちから解放されたかったからだった。そんな中、伊豆に初日に見た伊豆の光景。この何気ない風景は私に感動を与えてくれ、そして安らかな気持ちに浸っていたと思う。それはだれもが、経験することではないだろうか。雄大な自然をみて、心が穏やかになっていく体験。

伊豆という地はもしかしたら、人を「安らかに」させてくれる、癒しの聖地であるかもしれない。だから多くの文学者はこの地を訪れたのではないか。

一時帰国する中で、自らの故郷に足を踏み入れる。これは長い海外生活者であるならば理解できるであろうか。どこかほっとする感覚である。あの空港に降り立たったときの心境は毎度安堵感を与えてくれる。

今回は東京から踊子号で2時間半の列車の旅。それでもあっという間の到着であった。その間、富士が見え、海が見え、下田では山々が迫ってくるように見えてくる。

そういう時間でも、私は自分の過去、今の境遇、そしてこれからのこと。50歳を過ぎた私にとって非常に大切な深く考えることができる列車の旅路だった。

下田の港について、海を眺めながら、心地よい「風」が私の全身を浄化させてくれたようだった。それが私の「涙」へと誘ってくれたのだろうか。

それはあの「伊豆の踊子」という小説の中でただ文字だけをみるのではなく、いかにその場にいってみて経験することが大切だということを悟った一瞬でもあった。

だから「旅」は価値のあるものだと思う。文学や古典の中に出てくるシーンは、人の思考を深めてくれる場所かもしれない。そしてその人の人生を再度見直し、新たな一歩を踏み出すきっかっけを与えてくれる場所でもあると思う。

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